生きることの豊かさをいっぱいに感じる文学の最高峰

2017年、深まる秋に新たな出会いに心踊り…ボッカチオの「デカメロン」(平川訳 河出文庫 上中下)を読み終えました。
デカメロンは…男女10人がペストを逃れ、十日に渡る共同生活、一日一人一話ずつ物語る。多種多様な計、百の物語。気高いお話もあれば、楽しい「lust(情欲)」のお話も多く、わくわく感が溢れてきます。そして全編に貫かれているのは…愛!
最も魅せらたのは第十日第七話(下巻)、高貴な王に恋する身分の低い乙女のお話。最も印象的だったのが…第二日第十話(上巻)女心がダイレクトに描かれ男性にとってあらためて自らを省みたくなるほど衝撃的なお話。他にもわくわくするお話があふれ豊かです。
(セルジュ・チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 ブルックナー:「交響曲第8番」を聴きながら…


豊かな人生の出会い!

テセウス(シーシュース公)の願い 「無」から「有」「悲」から「歓」へ!

平澤シェイクスピア・アカデミー五周年を迎えた昨年2016年、大きな出会いに生きる歓びに包まれました。チョーサーの「カンタベリー物語」です。カンタベ
リー大聖堂に詣でる人々が語らうお話の数々には人間として生まれた喜びと愉しみを豊かに感じさせてくれるエネルギーに満ち溢れています。

「カンタベリー物語」のはじめに騎士が物語る第1話…
(シェイクスピアもここから題材をとり同じ内容で、
「二人の貴公子」という素晴しい作品を書いています。)
…一つだけその第1話「騎士の物語」からことばを挙げてみたいと思います。
アテネじゅうがある高貴な若者の死に直面し嘆き悲しんでいたとき、最高の英雄でありアテネを治めていたテセウス(英名:シーシュース)が自らの悲しみをこらえ
て、皆に熱いメッセージを送ります。その終盤にかけて、これを聞く人々が次第にゆっくりと、なにか大切なものをとりもどしていきます。

「わたくしは、この二つの悲しみを永遠に続く一つの全き喜びとするようすすめるのだ。さあ、気をつけてみられるがよい。この最も大なる悲しみの存するところ、そ
こからまず始め、それをよきことへと変えなければならない」

「カンタベリー物語」(上)(岩波文庫)より

このことばをきっかけに…嘆き悲しんでいた人々は少しずつ立ちあがり、新たな愛が生まれ、幸福感に包まれて物語がしめくくられます。そしてさらには、物
語を読む人の愛をも呼び覚ましてくれるかのようです。

(オットー・クレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団(1961年録音)メンデルスゾーン:「夏の夜の夢 序曲&結婚行進曲」を聴きながら…


2016年節目の年の再出発

平澤シェイクスピア・アカデミーは五周年を迎えました。振り返ると、とても長く感じる充実した五年間でした。特に昨年、心に浮かぶのはサントリーホールでの公演の
あたたかさ、シェイクスピアの地への旅、忘れられない宝です。なにより生きるエネルギーをいただけるのがシェイクスピアに集いシェイスピアを本当に楽しん
で取り組んでくださっている方々です。
5つのチームのそれぞれの魅力がでてきていることもまた私自身の楽しみでもあります。また、このシェイクスピアのアカデミーにも貢献してくださっている音楽
家の方々のそれぞれの分野での活躍、また名誉ある受賞も重なるなど、随喜の念があふれます。こうした愛おしい日々のうちに心の糧とも思えるたったひとりの読書の世
界においてもまた、素晴しい出会いが多くありました。そのなかで最も高貴に光を放っていた魂のひとつが古典中の古典「ベーオウルフ」です。
苦難に遭っては高潔な魂と屈強な肉体で乗り越え生きてきた主人公、王ベーオウルフがいよいよもって死に際し自らをふり返り、同時に民のことを思います。心から信
頼できる一人の貴族に支えられながら高潔に語り伝え終え昇天する魂はあまりに美しい…

「今目のあたりに見る宝をかち得しは、
万物の主、栄光の王、永遠なる神の恩寵の
賜物、感謝の言葉を捧げまつらん。
いまわの際にして、かかる宝をば
わが民のためにかち得ることを許されたる上は。
今や予が老い先短き命をなげうって秘宝を
あがなったるからには、この先民の望みを充たすよう
心を用いよ。予はもはやこの世に留まることあたわず。
荼毘(だび)の炎の鎮まって後、勇名高き者どもに命じて
海に伸びたる岬に大いなる塚を築かしめよ。
さすれば、その塚はわが民の想い出の
よすがとして、鯨ヶ崎に高々とそびえ立ち、
霧立ちこむるわたつみを越えて遠方より
大船を繰り来る後の世の船人どもは、
これを称してベーオウルフの陵というであろう。」
“Ic ðara frætwa     frean ealles ðanc,

wuldurcyninge,     wordum secge,

ecum dryhtne,     þe ic her on starie,

þæs ðe ic moste     minum leodum

ær swyltdæge     swylc gestrynan.

Nu ic on maðma hord     mine bebohte

frode feorhlege,     fremmað gena

leoda þearfe;     ne mæg ic her leng wesan.

Hatað heaðomære     hlæw gewyrcean

beorhtne æfter bæle     æt brimes nosan;

se scel to gemyndum     minum leodum

heah hlifian     on Hronesnæsse,

þæt hit sæliðend     syððan hatan

Biowulfes biorh,     ða ðe brentingas

ofer floda genipu     feorran drifað.”

「運命はわが親族なる
心猛き戦士らをことごとく
滅亡(ほろび)へと追いやった。予も、後を追わねばならぬ。」
“Ealle wyrd forsweop

mine magas     to metodsceafte,

eorlas on elne;     ic him æfter sceal.”

「中世イギリス英雄叙事詩 ベーオウルフ」(岩波文庫)より

(読み終えたあとにこの「ベーオウルフ」に合う音楽はなんだろうかと思ったところ…この曲がまっさきに浮かびました。ブルックナーの最後の交響曲、第9番で
す。曲の最後の最後は美しい人物がすうっと天に昇っていくかのようです。)
ギュンター・ヴァント&ベルリン・フィル(1998年ライヴ録音)「ブルックナー:交響曲第9番」を聴きながら…


ハムステッド

ロンドンの北部のハムステッドHampstead、シェイクスピアの町ストラットフォード・アポン・エイヴォンとともに再び訪ねられたらと思う美しくあたたかい町でした。写真の白い家はイギリス・ロマン派の詩人ジョン・キーツJohn Keatsが住んだ家Keats House

 


夏から秋へ

八月に入ると夏の暑さのなかにもどこか秋の空気が感じられてまいります。廻る季節の動きは世界そのものの呼吸、息吹のようです。
イギリス・ロマン派の詩人ジョン・キーツJohn Keatsの詩が響きます。1816年の詩、200年の時を伝ってきた美しい息吹に人生の愉しみをしみじみと思います。
この秋、ロンドンの北部、ハムステッドHampsteadのキーツの家を訪ねられたら…と思っています。もちろんキーツが敬愛したシェイクスピアの町も!

キーツ 詩 『きりぎりすとこおろぎ』  宮崎雄行 訳
On the Grasshopper and Cricket

The poetry of earth is never dead:
When all the birds are faint with the hot sun,
And hide in cooling trees, a voice will run
From hedge to hedge about the new-mown
mead―
That is the Grasshopper’s.He takes the lead
In summer luxury;he has never done
With his delights; for when tired out with fun
He rests at ease beneath some pleasant weed.
The poetry of earth is ceasing never:
On a lone winter evening, when the frost
Has wrought a silence, from the stove there
shrills
The Cricket’s song, in warmth increasing ever,
And seems to one in drowsiness half lost,
The Grasshopper’s among some grassy hills.

きりぎりすとこおろぎ
大地の詩(うた)はついに絶えることはない。
鳥たちがすべて酷熱の太陽に気も遠くなり
涼しい木蔭に隠れる折にも、一つの声が渡りゆく
刈られたばかりの牧場を囲う垣根から
垣根へとー
それはきりぎりすの声だ。壮(さか)んな夏の悦楽の
先導をなし、彼はおのが歓びを
尽しきることはない、興に疲れはてれば
どこか快い草陰に暢(の)びのびと憩うのだから。
大地の詩(うた)はついにやむことはない。
淋(さび)しい冬の宵 霜が置き
静寂を築く折にも、炉辺から
高い調(しらべ)に
こおろぎの歌はおこる、暖まりつつ いよいよ高く、
眠気に半ば吾を忘れた者に それは どこか
草深い丘できりぎりすの鳴く音(ね)かとまがうばかりだ。

「対訳 キーツ詩集 イギリス詩人選(10)」(岩波文庫)より

ウィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・フィル(1949年ライヴ録音) 「ブルックナー:交響曲第8番」を聴きながら…

 


薔薇

町のそこここに美しい五月の薔薇が咲いています。
その美しさに思わず見惚れ立ち止まります。
ゲーテは恋の薔薇の詩を書き、その詩にシューベルトが明るく軽快な音楽を書いています。特にこの曲の最後のフレーズには透きとおる様に美しい愛が流れているかのようです。
ゲーテ 詩 『野ばら』   手塚 富雄 訳

「ゲーテ詩集」(角川文庫)より

野ばら
野にひともと薔薇が咲いていました。
そのみずみずしさ 美しさ。
少年はそれを見るより走りより
心はずませ眺めました。
あかいばら 野ばらよ。

「おまえを折るよ、あかい野ばら」
「折るなら刺します、
いついつまでもお忘れないように。
けれどわたし折られたりするものですか」
あかいばら 野ばらよ。

少年はかまわず花に手をかけました、
野ばらはふせいで刺しました。
けれど歎きやためいきもむだでした、
ばらは折られてしまったのです。
あかいばら 野ばらよ。

バーバラ・ボニー(ソプラノ)&ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)(1994年4月ベルリン) 「シューベルト: 野ばら D.257」を聴きながら…


L・M・モンゴメリ作 『赤毛のアン』 より
第二章 マシュウ・クスバートのおどろき

人の本来もつ輝きを感じさせてくれる名作『赤毛のアン』、その美しさと豊かさには涙が頬を伝う。なんて美しい!と…。

孤児院から男の子をもらうために馬車を駆って駅まで迎えにきたマシュウは驚くことになる。やっと着いた駅のホームの端には女の子がひとりぽつんと座っているだけ…。
出会ったこのマシュウおじさんの手をとって目を輝かせながら語る少女アンのことば…
「お目にかかれて、とてもうれしいわ。もうむかえにきてくださらないのじゃないかと、心配になってきたので、どんなことが起こったのかしらって、いろいろ想像していたところだったのよ。もし今夜いらしてくださらなかったら、あの曲り角の大きな桜の木にのぼって、一晩くらそうかと思ったんです。あたし、ちっともこわくないし、月の光をあびて、真っ白に咲いた桜の花の中で眠るなんて、すてきでしょう。まるで大理石の広間にいるようだと思うことだってできますものね。それに、今夜いらしてくださらなくても、あすの朝はきっとむかえにきてくださると思っていたのよ。」
(村岡花子訳 講談社)

このアンの目とことばの輝きにマシュウはことのいきちがいを越えてこの子を、妹マリラとともに住んでいる家に連れて帰ろうと決心したのだった。

ゲルト・シャラー&フィルハーモニー・フェスティヴァ(2011年ライヴ録音) 「ブルックナー:交響曲第1番 第2楽章」を聴きながら…

写真:「シェイクスピアお稽古場の夜桜」


1春薫る美しさ

沈丁花(ジンチョウゲ)
花言葉は「栄光」「不滅」「永遠」など

慎ましやかにも芳香を空いっぱいにはなち、(やわらかく)「あ、春!」と感じさせてくれるジンチョウゲの花…控えめでやわらかい雰囲気でありながら、芯になにか強さを感じさせる。そして美しい。

そのような感性をもつ方と同じ空間にいてお話ししたり、時をすごすとこちらまで豊かな感じがしてきて幸せな心地がします。
そういう方のもつ感性は人としての宝、ジンチョウゲの薫りのように永遠不滅のものでしょう!
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)「シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 第1楽章」(1977年10月パリ) を聴きながら…


百年、世界中の人々から愛され続けてきた愛と希望の物語

ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』

児童文学の美しさかわいらしさ豊かさ!

『オズの魔法使い』(河野万里子訳 にしざかひろみ絵)新潮文庫

美しく豊かな物語は生きる糧となると実感します。
『オズの魔法使い』(1939年/アメリカ)の映画も心がこもっていてくり返し観たくなります。観終わった後には「オーバー・ザ・レインボー♪」と心弾み、あたたかくなります。

マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮&モーツァルト管弦楽団(2013年) 「モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 第3楽章」(ライヴ録音)を聴きながら…


秋空に美しく透きとおる愛の物語

イギリスで古典としてシェイクスピアに並び称される作家、ジェーン・オースティン最晩年の美しい作品『説得』
愛の感動的な再生を繊細かつ豊かに描いた作品に心うたれます。
金木犀の薫る美しい秋に、人として生きる喜びをしみじみ感じ目覚めさせてくれるかのようでした。

  • 富田彬訳 『説きふせられて』(岩波文庫)
  • 阿部知二訳 『説きふせられて』(河出書房新社)
  • 近藤いね子訳 『説得』(講談社)
  • 大島一彦訳『説得』(キネマ旬報社、 中公文庫)
  • 中野康司訳 『説得』(ちくま文庫)

エフゲニ・スヴェトラーノフ&ロシア国立交響楽団(1993年) 「チャイコフスキー:交響曲第5番 第2楽章」を聴きながら…


絵本紹介

本国イギリスから取寄せた魅力的な本の紹介です。
スーザン・ハーバートさんが描く美しく可愛らしい猫たちが演じるシェイクスピアの名シーンが生き生きとしていてとても興味深い…

Susan Herbert  SHAKESPEARE CATS  Thames & Hudson

表情豊かな絵で、その場面場面の空気感、シェイクスピアの登場人物たちの心情が伝わってきます。くり返し何度も何度も見ても楽しい発見があります。


瑠璃色の空を控へて岡の梅

(るりいろのそらをひかへておかのうめ)季語=「梅」(春)
漱石はこの句を詠んだ年の5月に文部省よりロンドン留学を命じられました。そしてその秋、9月に出発します。それはまったくの突然のことだったのかもしれませんが、漱石の豊かで大きな心の人にとってはなにがしかの兆しや予感があったにちがいありません。
この句を思いめぐらし繰り返して声に出して読んでいると、「出発」ということばが湧いてくるように感じます。「控へて」、「瑠璃色の空」、また一年の始まりを力強く印象づける「梅」の花がそう感じさせるのでしょうか…。これから行く「西洋」をみつめていると決めつけるのではなく、不思議と漱石の「文学」探究への新たな旅路の出発を感じさせます。
きっとイギリスでは「瑠璃色」の絵画にも触れたことでしょう。不思議で豊かな結びつきをも感じさせてくれます。漱石自身、もっと俳句を詠んでいたいという思いと力強く出発しなければという思いのなかに梅を見つめていたのかもしれません。
ダニエル・バレンボイム&ベルリン・フィル(1997年ライヴ録音) 「ブルックナー:交響曲第2番 第2楽章」を聴きながら…


水青し土橋の上に積もる雪

(みずあおしどばしのうえにつもるゆき)季語=「積雪」(冬)

美しく澄んだ真っ青な水と真白の雪の色彩がゆたかに心に映ります。
漱石の句はほんとうに格調があって大きくてなんだか涙があふれます。
色彩だけではなく、心を省みさせるなにかをもっているからでしょうか…。
この青と白は不思議とイエスキリストのお衣にも感じられます。
「積もる」ということばも深くひびくことばですね!
平澤演劇アカデミーのイメージ・カラーをデザイナーの方にお願いするとき、「キリストの(またはマリア様の)衣の色をイメージしています」とお伝えしました。あれから、3年になろうとしていますが、集う多くの受講生の皆さんとともに一つ一つを積み重ねてきたこの3年間が5年、10年にも思えてとてもありがたかったと振り返ります。これからも皆さんとシェイクスピアを楽しんで丁寧に積み重ねていきたい。少しでも素直に謙虚に歩んでまいりたいと思います。
レナード・バーンスタイン&イスラエル・フィル(1985年8月25日ライヴ録音) 「マーラー 交響曲第9番 第4楽章」を聴きながら…


秋立つや千早古る世の杉ありて

(あきたつやちはやぶるよのすぎありて)季語=「秋立つ」(秋)

漱石らしい大きな空間性のある句です。
生命力あふれるこの世に生きる不思議と喜びをあらためて感じさせてくれます。

福岡市の香椎宮のご神木、綾杉は神代からの深い心と願いとともに1800年余を生き続
けているそうです。

漱石はあらゆる作品を通して、時空を越えたなんともいえない深い本質的なものと呼
応する魂を伝えてくれています。たとえば『夢十夜』の三夜… 盲目の息子を背負っ
て道ゆく男は、その子どもに導かれ、杉の根のところで、百年前の自分と出会うこと
になります。この話のラストは、男が百年前ある一人の盲目を殺した自分というもの
を覚ります。一見、暗闇のような不気味さを残すかのようですが、実は人の本当の豊
かさを翔けぬける本道に繋がっているように思えます。

漱石がごまかしなく、人間の本質的なものと真に向き合い続けたからこそ、その作品
には本当の宝が隠されているのです。その宝とは本来の豊かな自分自身と何度も何度
も重ねて出会っていかれるための脈です。

シェイクスピアにもまったく同じことが言えます。人の根本を見つめて書いた作品だ
からこそ、実際に声に出して読んでいくと自分自身に会うことができます。だから、
上手い下手を越えて、わくわくするような楽しさがあり、また尽きるところがないの
です。平澤演劇アカデミーでは全員でこれを具体的にやっています。この秋から新し
いシェイクスピア朗読クラスがスタートいたしますが、さらに深く楽しんでいかれる
のをいまから楽しみにしています。


駄馬つづく阿蘇街道の若葉かな

(だばつづくあそかいどうのわかばかな)季語=「若葉」(夏)

荘大な阿蘇を望む道、荷馬が一歩一歩ゆっくり着実に地を踏みしめて行く。若葉が導
くように続いていて、初夏の美しい緑の風さえ心地よく感じられます。

漱石のことばの素晴しさは、いつも感じるところですが、生命の息吹が脈づいてい
て、絶えないエネルギーに充ち満ちている。しかも美しく永遠です。この句の情景は
今ではほとんどみられないと言っても言いすぎではないと思われますが、この句から
伝わる息吹は私たちの体の奥の記憶を呼び起こしてくれます。漱石が「森の都」と呼
んだという熊本を実際に訪れ、句のとおりを体験された方も、私のように体験してい
ない方も共通の感覚が蘇るのではないでしょうか。真の芸術はこの時間と空間を越え
て真実空間の共有体験をさせてくれます。

現在、アカデミーには人生経験のゆたかな方々が集い、「シェイクスピア朗読」され
ていますが、シェイクスピアの豊なことばに出会い、深く感じ入っていらっしゃいま
す。人生経験の浅い私などには気づかない、ことばの波動と真意を皆さんが実際に感
じているのがとても嬉しく美しいです。こうした経験の有無、深さをも越えてともに
心底楽しむことができるのはシェイクスピアが本物の芸術だからでしょう。この夏も
全員でシェイクスピアを楽しんでいかれたらと思います。

メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』〜序曲(チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィ
ル)を聴きながら…。


 

神の住む春山白き雲を吐く

(かみのすむはるやましろきくもをはく)季語=「春山」(春)

漱石の俳句のなかで最も漱石らしさのあふれたものではないでしょうか。
広がっていく大きさが果てしないからです。句の意味以上に息が深く豊かです。
山を擬人化しているというより、そのものになっている感じです。漱石も、はたまた、この時期漱石が共に過ごしていた子規も、この句に触れる私たちも壮大な山と一体化して深い呼吸をするかのようです。
漱石の生きた同じ時代、ウィーンではブルックナーがこうした壮大な息をもつ音楽を書いていました。とても大きな世界、宇宙的な響きです。これは自分とは全く別のもの、外にあるものかもしれませんが、どこかで繋がった一体のものといえるでしょう。ブルックナーの音楽は私たちの中心の奥の奥を感じさせ、出会わせてくれるように思います。ブルックナーを指揮する巨匠たちは「彼の音楽の前では“我”がなくなり、無になるよう」と感じているようです。
漱石も「則天去私」、いわば“無”を見つめていました。
“無”を通し、私たちは自分のなかのたしかに“有”なるものに出会えるようです。これが本物の芸術の息吹ではないかとも思います。
この句は勿論、漱石の晩年ではなく20代の頃(松山で)のものです。「神の住む春山」というのがなにか年を越えた瑞々しい美しさが溢れています。この春はまたさらに平澤演劇アカデミーに集う多くの方々とともに「シェイクスピア朗読」で少しずつ着実に息を深く豊かにしていかれたらと思います。

 


 

冬木立寺に蛇骨を伝えけり

(ふゆこだちてらにじゃこつをつたえけり)季語=「冬木立」(冬)

「蛇骨」とは珪華(けいか)。 <http://kotobank.jp/word/%E6%B8%A9%E6%B3%89>

温泉の噴き出し口などにできる沈殿物で、湯の花、温泉華です。松山で詠んだ句ですか
ら、「寺」は松山市内の温泉(道後温泉)近くの石手寺でしょうか…。お寺の門前に
まで湯の花が咲くような錯覚を覚えます。漱石はこの句を東京の正岡子規に送ってい
ますが、子規にも花が伝わったのではないでしょうか。句に触れる私たちにも…。漱
石の句の流れには滞りがないです。それにしても、湯の花…温泉に生ずる現象に対し
て、その奥に花(華)を見つめる日本人の心はとても繊細で美しいです。

「寺」と「湯の花」をたった17音の世界に存在させる漱石の大きな心を感じます。そ
してその漱石の心は太古からの日本人の心を引き継いでいると思うのです。一見、相
反するもの・対象的に見えるもの・ある種異質なものを相対的に見るだけでなく、そ
の根本の繋がりというものをどこか見つめようとする日本人の柔和な心です。

イギリスが生んだ世界の作家、シェイクスピアもまたこの根本的な繋がりというもの
をたしかに見つめていると作品を通して感じます。様々な人間像・様々な角度からの
見え方を描いたことに加え、シェイクスピアもこの宝を描き、私たちに伝え感じさせ
てくれます。人の根本を繋ぐ線があります。たとえ「悲劇」であっても『リア王』の
ような大悲劇であってもこの線が存在します。

豊かな経験を重ねてこられた社会人の方々がアカデミーに見えて多くのシェイクスピ
ア作品を実体験を基に声に出して読んでおられますが、ここを感じて大切にしてくだ
さるから、「シェイクスピア朗読」の楽しみが深くなっていると思うのです。

 


黙然と火鉢の灰をならしけり

(もくねんとひばちのはいをならしけり)季語=「火鉢」(冬)

この句にはほんとうのあたたかさがあります。
静かな寒い日に火鉢であたためつつ、手は火箸で灰をならしては、目は自分の心へと向かっている。
漱石の心の内はだれにも分かりませんが、どこか陰鬱で寂寞とした心でしょうか?(この時期は子規との共同生活を終えて間もないころだったそうです)
しかしながら、こちらにはたしかに今、あたたかい感じが伝わってまいります。本当に美しいです。

私が大学時代、就職活動をしていたとき、会社の面接と面接の間に上野へピカソの絵を観に行ったことを思い出します。ピカソの絵のなかの人物の目はピカソ自身の目のように力がありました。そしてどの絵も、一方の目は内(自分の内面)を、もう一方の目は外(鑑賞者の方)を見つめているかのようでした。感じるところが大きく、今でも忘れられません。なんだかあたたかく優しい心が伝わってきたのです。

シェイクスピア朗読をやっているとどんどん自分の響きには厳しくなり、受講生の刻むシェイクスピアがどこまでも美しく聴こえます。たしかに自分が一番下手だとも思います。人の本質的な美しさに励まされ、本当の芸術のあたたかさに触れて、私は初めて少し外を向けるように思うのです。

 


秋高し吾白雲に乗らんと思ふ

(あきたかしわれはくうんにのらんとおもふ)季語=「秋高し」(秋)

「秋高し」本当にいいことばですね!
秋晴れの空、秋の風に乗り、百十余年の漱石の意志、緊張感、情熱が今に伝わって来るかのようです。

漱石29歳の句ですが、20代はじめの漱石はすでにこの「白雲」を自分の心の理想としていたということです。「白雲」は大自然のような大きさを感じさせます。

シェイクスピアをさせていただくなかで、正にこの「白雲」と呼べる方々に出会い、自分の小ささを恥ずかしく思うのと同時に、熱く燃える生きるエネルギーをいただけるのを実感します。
この句にあらためて触れ、私が深く思いますのは、ピアニストの實川 風(じつかわ かおる)さんです。20代はじめの本格的な芸術家で、正に「白雲」ということばどおりの天才です。實川さんはじめ「白雲」を感じさせる方々はあたたかなお人柄に、本当に素直な感性でお話しくださり、驚嘆するばかりです。この秋さらなる高みへといかれるのだと敬愛の念をこめて応援させていただきたいと思うのです。


 

すずしさや裏は鉦うつ光琳寺

(すずしさやうらはかねうつこうりんじ)   季語=「涼し」(夏)

鉦の音が聴こえてくる。澄んだ空間にこだまする響きが今、正に伝わってきます。

漱石が妻鏡子と熊本へきて一番最初に住んだのがこの光琳寺町だということです。
「裏は鉦うつ」と日常的で生活感があたたかく溢れながらも、今こちらに響いて伝
わって来るかのような不思議と、また気品があります。

7月7日に「シェイクスピア・ライヴ」を開催させていただきましたが、小田島雄志先
生訳のシェイクスピアを受講生の方々が実体験で語られていて、会場は涙の音も聴こ
えてくるほどでした。「皆さんが本物の感情を伝えたからだ」と小田島雄志先生はあ
たたかい励ましのお言葉をかけてくださいました。

この7月より平澤演劇アカデミー音楽監督に就任した久野幹史氏による音楽が「シェ
イクスピア朗読」とぴたりとひとつになっておりました。劇中に久野氏がつく鐘の音
も、効果音ではなく、登場人物の感情を極限まで表現しようと打ち方一つにこだわっ
ていたことに大変感激いたしました。この鐘の音は劇のラストにはサレーニオとサ
リーリオが打つことになりますが、親友たちが恋人と無事結ばれたこと、アントーニ
オの難破したと伝えられていた船が無事にひょっこり港へ戻ってきたことなど、他者
の喜びに自分を越えて喜ぶ、随喜の音を豊かな表情とともによく出されていたことに
美しさを感じました。響きとは心の脈動、人の魂からの純エネルギーであると感じま
す。そして、これを最も燃焼させ引き出させるのはこの随喜の心だと思うのです。そ
してシェイクスピアもここを深めていくことが尽きない楽しみであるということを受
講生の皆さんと取り組むシェイクスピアで深く実感いたしました。



卯の花や盆に奉捨をのせて出る

(うのはなやぼんにほうしゃをのせてでる)

季語=「卯の花」(夏)

漱石の美しい白を感じます。

巡礼、お遍路に心から捧げ出す姿に卯の白い花が眩しく映える美しい初夏の一日が浮かびます。

人の美しさを感じるひとつ「奉捨」は人に捧げ尽くす心の底からの燃焼とも言いえましょう。

奉捨する心に白の美しさがこの世界という舞台で一体となります。巡礼者に施しをするために、まっさらな心でおもてへ出る姿に、卯の花がそのふっくらした白で呼応します。漱石のこうした感覚は小説のうちにもたくさんあふれていて、とても魅力的です。美しい四季の花々が登場人物の心情・言動に不思議なほど一体化します。この不思議な結びつきを感じることは限りない喜びです。そしてまた大きなエネルギーが満ちて溢れてきます。

この奉捨の心に接したり、感じたりするとき、人としての最高の喜びに包まれます。

仏教の僧として最高位の大阿闍梨の方が尊敬する方に向けて、五体投地をされたお姿を、拝したことがありました。これに偶然接したとき、なぜだか涙が自ずとあふれ止まりませんでした。なんともいえず嬉しかったのです。

奉げる心というものを本当にどこまでも大切にしていかれたらと願うのです。講義、シェイクスピア朗読、講演、そのような舞台にいざ立つとき、いつも恐ろさにふるえます。同時に、自分が溶けていくように無くなっていく感じがします。そうすると、自ずとただ自分の体の中心、たしかに存在する奥の奥が燃えだして、なんともいえないエネルギーが漲ってくる。それをただ自分以外の人へ向かって捧げ尽くす、捧げ尽くしたいとだけ思うようになります。こうした時初めて、人として生まれてきたことがなんとも楽しく、あらゆることに感謝もでき、隔てなく愛おしく思え、体の中で不滅の炎が燃え始めるように感じるのです。

小田島雄志先生は「お客さんを信じることだよ。」とあたたかく私にお話くださいました。2011年の初夏のことです。向けてくださる大きくあたたかいお心に涙があふれました。そしてこれからどこまでもそうさせて頂きたいと思うようになりました。平澤演劇アカデミーに集ってくださいます皆さまと、初めてのShakespeare Live「シェイクスピア朗読劇」に挑みます。コンダクトしながら演者としてシェイクスピア・ステージに立ちます。オーディエンスと出演される素晴らしい方々を、今、私はどこまでも深く信じています。皆さまと「シェイクスピア朗読」に取り組むとき、小田島雄志先生のシェイクスピアを読み演じながら、豊かであたたかい真の交流を感じています。素晴らしい皆様との出会いに心から感謝し、さらに奉捨の心熱く、少しでも楽しんで頂けるためのお力になりたいと思います。

2012年の七夕、小田島雄志先生の「千万の心をもつ」シェイクスピアの大きさ、深さ、あたたかさに触れ、真のシェイクスピア体験、「自分の再発見」「他者との真の出会い」の輪が広がっていきますように願います。



うねうねと心安さよ春の水

(うねうねとこころやすさよはるのみず)

季語=「春の水」(春)

「春の水」…この水の柔らかさは心地よい春の日差しをも感じさせてくれます。穏やかな自然の風景がうかびますが、この句を詠んだころ、漱石自身、松山の教育現場でいろいろなことがあり、心穏やかとは言えない時期だったそうです。しかしながら、漱石の体験している心のわだかまりに留まることなく、他に溢れてくることば、心の世界は私たちをあたたかく包んでくれるようです。

この句を声に出してくり返し読んでいると、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」が心に流れてきました。ワーグナーは60歳間近、長男のジークフリートが生まれ、あたたかい喜びがあふれていたといいます。平和で静かな愛に満ちた心が伝わってくる名曲です。個性が強く波乱の人生を歩んできたワーグナーには珍しい作品だそうです。ワーグナーの音楽自体も150年もの長い長い歳月を流れてきました。厳しいかつてのドイツの政治の下にも流されたこともあり、波乱万丈であったことでしょう。ただ、その根本は常にあたたかい水のように流れ続け、今こうして、演奏する人・聴く人をあたたかく、熱くさせてくれます。こうした芸術には大きな心があり、個人的な感情・感覚を越えて生きるエネルギーを私たちに与えてくれます。正に、世界の宝であると思います。

大学生の頃、シェイクスピアに初めて出会い、魅かれたのも、このようになんとも言えないあふれるあたたかさでした。あんなに多くの人が亡くなる劇を書いてきた人が晩年、“なんてすばらしい!りっぱな人たちがこんなにおおぜい!人間がこうも美しいとは!ああ、すばらしい新世界だわ、こういう人たちがいるとは!”(小田島雄志先生訳『テンペスト』)と響かせているのです。驚きました。と同時に、とりこになりました。そして今、平澤演劇アカデミーで、そのように思える方々と真に出会い、ともにシェイクスピアを取り組めることは尽きない喜びです。

ちなみにワーグナーの芸術の理想は音楽ではベートーベン、そして作家ではシェイクスピアだったそうです。ワーグナーの類い稀な素晴らしい歌劇・楽劇でのシェイクスピア作品をひとつでも見聴きしたかったなあ、と心のどこかに叶わぬ夢を描きます。

自分の体験したことに留まらず、常に心底で大きくあたたかくとらえていく人になりたいです。そしてなんともいえないあたたかい喜びを人にあふれさせるエネルギーを深くしていく努力を大切にしていきたいです。

漱石のことばからの大きな贈り物をまたこの春ひとついただけたように感じます。うねうねと流れる「春の水」のごとくに、少しでもそうありたいと願います。



弦音にほたりと落る椿かな

(つるおとにほたりとおつるつばきかな)

季語=「落ち椿」(春)

「ほたりと」は、夏目漱石の豊な響きのことばですね。

弓を引きしぼり矢を放った瞬間、矢は鋭敏な響きで的を射ぬく、と同時にその弦の鼓動に空気がふるえ、柔らかく地に着く花房の音が響く。生命が奏でる一瞬のアンサンブルに限りない美しさを感じます。

本当の美しさはもう一つの要素が必要かもしれません。この句にはそのことが感じとれます。何度も声に出して読んでみると、これは描写ではなく、漱石の本当の体験だと思えてきます。眺めたものでなく、実体験そのまま。多分、漱石はこのように弦と椿の音を全身で実際感じたのでしょう。弦の音も振動も、目と手と耳から体験したと。矢を放つ漱石。一心不乱というよりも、少しの余裕をもち、自分のなかに、中心が豊かにあり、そこからあふれるとき、その空間の中心と自分の中心が繋がれて、一体となり、その瞬間は永遠に人に刻まれる。漱石の実体験で止まらず、私たちも、今ここに、同時にこれを感じられることは、不思議なことで、素晴らしいことだと思います。これが本当の美しさではないかと思います。

かってバチカン美術館のラファエロの絵画を観た時、天に昇るイエス・キリストの姿に涙があふれました。絵でわけもなくただ涙があふれたのは、このときだけです。そして今もこの絵と出会った時を忘れられません。ずっと忘れないでしょう。ラファエロはこのキリストのお顔を最後に書いて息絶えたそうです。これを知った時は驚きました。中心からそのものになる豊かなエネルギーをもつ芸術というのは、人にもその豊かな瞬間を刻ませてくれるものだなと思います。

つる音、おつる、と「つるつる」ときますが、これは脈動とも呼べる現象界・生命の脈、流れる波の動きが伝える妙なる調べではないかと思います。

最後に少々・・・。椿は武士に好まれないとも聞きます。またこの句にあることばは、時期的に・・・縁起が悪いと感じる方もあるかもしれませんが、この純度の高く豊かなエネルギーそのものをいただき、あたたかい春に向けて、すべてを邁進するエネルギーに換えていきたいですね。


同化して黄色にならう蜜柑畠

(どうかしてきいろにならうみかんばた)
季語=「蜜柑畠」(冬)

漱石も、私たちも、自分自身が溶け込みそうになるほどの広がる蜜柑畠の黄色ー
“それそのものになる”=“同化”人の本来もつ素晴らしい秘儀と感じます。
その導き手、最大の教師が大自然そのものと言えるのではないかとも思います。
そうしてその最大の学び手は、人間でしょう。さらには、小さいながらも人間のなかには、
自然に負けない程の、自然そのものに同化しうる力も、有しているのではないかと期待します。
現に、夏目漱石が遺し伝えるこの17音も、時を越え、空間をも越え、私たちに果てしない豊かさを
与えてくれています。
この句は、漱石が遠くから蜜柑畠を眺めて生まれた文学作品かもしれませんが、漱石のことばと
心をとおして私たちの全身に広がるのは、“目で見る”“見える”だけではないかもしれません・・・。
視覚に止まらず、誘発され広がり、聴覚、臭覚、触覚、もしかしたら味覚も盛んになり、同化という
秘儀の助けの一つになりはしまいか・・・
兄が小さい頃、蜜柑がおいしくて、こっそり?いくつも頬張り、体中が真黄色になったそうです。
皆こぞって目を丸くして驚いたくらいに。そして、今でもときに笑い草になるほどに。
知らず知らずのうちに蜜柑と同化してしまった幼い時分の兄の話はともかく・・・

蜜柑は約400余年前に中国から伝わってきたそうですが、400年前と言えば、16世紀後半から
17世紀初頭、彼の地では、シェイクスピアが生きて、大活躍していた頃にあたります。
平澤演劇アカデミー、べーシックドラマコースでは、現在、あらゆる分野の
第一線で活躍されている方々が集い、小田島雄志先生訳のシェイクスピアに取り組んでおります。
そのアプローチは、正にこの“同化”=人のもつ宝、自然一体の秘儀にあると思うのです。
ですから、どこまでも限りなく心底楽しいのです。シェイクスピアは、読み方、発声法、演技術、学術、
身体法、呼吸法で捉えていくには、限りがあります。そこを越えて行かれるのが、最も根本的な人としての
宝だと思います。
人のもつ秘儀をもすべて、中心から他に、とろけ出るように奉捨して、本当に一体となっていく、また、そうなっていこうとするところに、本当の楽しみと、他者との本当の結びつきを可能にする宝が隠されているのだと感じます。そこにシェイクスピアの大きな世界、豊かなことばの妙なる流れにのることができ、自分だけではなく、他者とともに本当にどこまでも楽しくさせていただけるのです。


曼珠沙花あつけらかんと道の端

(まんじゅしゃげあつけらかんとみちのはた)

季語=「曼珠沙花」(秋)
忘れられない赤の色ー
この秋、歩いていると道に曼珠沙花をみかけ、思わず足が止まりました。
目と目があったように、しばらく立ちつくし見つめあっておりました。
その不思議な存在に、そして、曼珠沙花のあたたかい赤に引きつけられました。
その赤には生命の根源的なエネルギーを感じます。

曼珠沙花を見つめる漱石は、「あっけらかんと」と、、、と描いているところがとて
も印象的です。あの姿からは、たしかに豪華さも、美しさを誇るようなところも
全くなく、ゆるやかなあたたかみがあり、不思議な美しさです。
そして、通りの真ん中ではなく、「道の端」にいる。控えめにいる。
忘れられない美しい赤が鮮やかに、なにかを呼び覚ましてくれるようで、
なんとも愛おしい。

仏教の高僧の中でも最高位の方は赤色の衣を召していると聞きます。
彼岸花の名の如く仏の花としての認識が強いですが、生も死も越えて見つめる
エネルギーに満ちあふれて、私たちをみつめているかのようです。
“沙”とは仏教の大切なことばであると同時に、シェイクスピア“沙翁”を示すことば
でもあります。
この秋は、べーシックドラマコース、土曜クラス、新設クラスともに、新たにスタート
させていただきますが、“沙花”シェイクスピアの本当の花を咲かせていくことを
皆さまと目指します。
この花は、本当に“楽しい!”と思えること。そしてその“喜び”が溢れて人に伝わって
いくものであると思います。


涼しさや石握り見る掌

(すずしさやいしにぎりみるたなごころ)

季語=「涼しさ」(夏)

“寅彦桂浜の石数十顆を送る“とあります。
弟子の寺田寅彦が故郷、桂浜から送られてきた美しい石を手にする
漱石の思いが時空を越えてあふれ、いまここに伝わってまいります。
「握る」「見る」に限りない人の感性感覚、深い思いを感じ、
夏の涼しい風にまさるとも劣らない心地よさを感じます。

音楽の巨匠、レナード・バーンスタインは、
『 日本人はたとえば握手をするとき、握り合う寸前の一瞬、
まだ触れ合わないその一瞬のうちに、
握り合う以上の宇宙を感じる不思議な力を特に有し、
このような感性感覚に大変優れている 』

ということを愛弟子の佐渡裕さんに言われたそうです。
夏目漱石と寺田寅彦との握手以上の手に手をとる心を感じますと、
全くの第三者である自分のうちにも、随喜の念があふれます。
初夏、超一流の音楽家でいらっしゃいます、一中節 十二世 都一中さん※の
どこまでも素晴らしい演奏会を聴かせていただきました。
(※一中節は江戸時代はじめより三百年後の今日へ脈々と受け継がれてきた
伝統音楽で、現在は十二世、都一中さんのご活躍、そして多くの方々のご尽力で、
伝統と真の芸術がまさしく実現されている類まれな本物の音楽世界です。)

終演後、勿体なくもあいまみえる機会を頂戴いたしました。
目と目があって、手を握らせていただきましたとき、出会うことができた喜びに
涙あふれました。こういう方とシェイクスピアを
本当に、ともに読みあっていきたいと深く感じさせていただきました。
平澤演劇アカデミーのベーシックドラマコースでは、シェイクスピアを声に出し読ん
でおりますが、講座にみえている方全員にもこの思いがあふれます。
人と人との真の一つを繋ぐ音と息を全員で、これよりさらに求めて参りたいと思います。


端然と恋をして居る雛かな

季語=雛(春)

端然と=「正しくお行儀のよい様」

「雛」は、生命をもつ人形として感じ、とらえることも想像力豊かで面白いことですね。
漱石のこの句を声にして繰り返しておりますと、さらにもう一歩、私たちに面白いことを伝えてくれているように感ぜられてまいります。
それは、「雛」を「私たち(自身)」、「私たち(そのもの)」、「私たちの(過去)」、「私たちの(これから)」と、本当にとらえていったならば、他人事でない不思議な一体感、言葉の広がりを実体験出来うるのではないかということです。
当アカデミーの各講座では、朗読や演劇の上手さではなく、こうした言葉の内包する深さを少しずつ体験を通し、学び、研究し、自分のものとしていくわけです。そして、これを“他と共有していくこと”これを最終的な目標としております。

もうひとつの句には、新婚の漱石自身、一体感の句を!!


菫程な小さき人に生まれたし

(すみれほどなちいさきひとにうまれたし)

季語=菫(春)

“知る人もなくうなだれて  牧場に咲いたすみれ一もと -
真実ひめた菫ひともと”
ゲーテの詩の『すみれ』のはじまり。
羊飼いの娘に思いを寄せている菫の心は、
“「わたしが春のいちばんきれいな花であるならば、
ほんのしばしのときなりと。
ああ、あのひとの手に摘まれ 胸に抱かれてあるならば。
ほんのほんの ひとときなりと」”
しかし娘は気もとめず、通り過ぎていく。その足に踏みにじられる・・・
“すみれはうち伏し、息絶えつつも心うれしく
「死ぬるも喜び、あのひとの足にふまれて
その足もとに その足もとに 死ぬるこの身は」”

手塚 富雄 訳

ゲーテの詩にモーツァルトは作曲、『すみれ』はリートの最高傑作として知られてい
ます。
そしてまた、モーツァルトは自身の感動をこめて最後に2行こう書きたしているそう
です。
“かわいそうなすみれよ! それは本当にかわいいすみれだった”

“すみれ”、“ちいさき”・・・ひとつの小宇宙で、人はこのことがあるから、逆に
他者に向かってどこまでも広がっていかれると信じます。
ゲーテもモーツァルトも、そして漱石も、ほのかにも強く求める真実ひめた小宇宙。
これもまた、だれもが持つ人の本当の宝であると感じます。“息絶えつつも心うれし
く”この宝の輝きは小さくとも他を照らす燈火。一見、寂し気なゲーテの菫も、読ん
でいるうちに、自ずとその燈火に照らされて、喜びの涙があふれてまいります。
モーツァルトの音楽も、手塚富雄さんの訳も、菫への慈しみが溢れています。

菫程な小さき人に生まれたし

漱石のこの俳句も、漱石の魂の一筋にゆく道を感じます。“則天去私”の魂。まさに
この菫そのものであるなあと思います。


二つかと見れば一つに飛ぶや蝶

(ふたつかとみればひとつにとぶやちょう)

季語=蝶(春)

結婚直前の漱石の目にうつる二つで一つ。
“目で見、心で刻み、ことばにする・・・
そのうちに、もともと二つのものが一つになっていく。”
これは人の最高の宝であると思います。
シェイクスピアも漱石もこの宝を求めて作品を書き続けています。

平澤演劇アカデミーもこれを最高の宝として、この春、開かせていただきました。
“他者との真の出会い”これを常に基盤にして活動している。だから、心底楽しいの
です。
皆様とともに、このたしかな宝をどこまでも大切に、深めてまいります。


思ふ事只一筋に乙鳥かな

季語=乙鳥(春)

イタリアには“第二の国歌”として愛されている歌があるそうですね。
ジュゼッペ・ヴェルディの初期のオペラ『ナブッコ』の中で歌われる合唱曲“行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って”だそうです。
本当にいい音楽。歌詞も素晴らしいです。別の機会にまたご紹介できたらと思います。
さて、夏目漱石の思いも、美しい若々しいツバメのように、いえ、ツバメそのものとなり、飛翔していくようです。美しく、不思議な力のある句ですね。
漱石の数多くの文学作品のうちでも、ぼくはこの句が最も好きです。
漱石のこの“思ふ事”っていったいどんな“思い”なんでしょうか?どのような思いのうちに、この句を詠まれたのでしょうか?これは、もう聞くことはできませんね。もし、ご在世でも、本当のところは、語ってくださらないでしょう。
この(他人の)“本当の思い”というものは、私たちは知ることができず、本当には語ることができません。ですが、それだからこそ、どこまでも、自分自身が素直になって、これはどういうことなんだ!?なんなんだ!?なんだろう!?と、切実なあたたかい思いで深めていくうちに、なんとか辿ることができるのではないかと信じます。アカデミーでは、こうしたことを本当の楽しみとして、大切にして参りたい。またこれが、これからの新しい真の芸術ではないかと思います。


端然と恋をして居る雛かな

季語=雛(春)

端然と=「正しくお行儀のよい様」

「雛」は、生命をもつ人形として感じ、とらえることも想像力豊かで面白いことですね。
漱石のこの句を声にして繰り返しておりますと、さらにもう一歩、私たちに面白いことを伝えてくれているように感ぜられてまいります。
それは、「雛」を「私たち(自身)」、「私たち(そのもの)」、「私たちの(過去)」、「私たちの(これから)」と、本当にとらえていったならば、他人事でない不思議な一体感、言葉の広がりを実体験出来うるのではないかということです。
当アカデミーの各講座では、朗読や演劇の上手さではなく、こうした言葉の内包する深さを少しずつ体験を通し、学び、研究し、自分のものとしていくわけです。そして、これを“他と共有していくこと”これを最終的な目標としております。

もうひとつの句には、新婚の漱石自身、一体感の句を!!

○雛に似た夫婦もあらん初桜
(ひなににたふうふもあらんはつざくら)


見て行くやつばらつばらに寒の梅見て行くやつばらつばらに寒の梅

季語=寒の梅(冬)

「寒」=1月5日ごろから立春の前日までの一か月。一年のうち最も寒い頃。
「つばらつばら」=小さくてまるい。万葉言葉では、「しみじみと」、「心ゆくままに」、「あれこれと」の意。
「寒の梅」→本来は「寒梅」のところを「寒の梅」とした漱石の感性が柔らかく素敵ですね。

冬から春になるころ、梅が真っ先に咲くことから、梅は古来より、万物の根源的なエネルギーをもった花とされてきたよう。曹洞宗の道元禅師の歌にも、そのように詠まれているそうです。
季節のものを見たり、聞いたり、味わったりする自然の行動には、不思議な広がりがあります。この行動の中に、少しでも柔らかく、あたたかく、明るくとらえ、そこに自分を一体化していかれたら、楽しいですね。
夏目漱石の作品には、様々な花が登場しますが、美しく外観を飾るのではなく、登場人物、また、その場の小世界と一体となって、読者にも訴えかけてきます。これが漱石の独特な感性で、私たちアカデミーの求めている宝でもあります。